sirome
いやー寒くなりましたね。
我が家は炬燵が出陣しています。
学生の時は、転寝しちゃうので炬燵は苦手だったんですが
短時間で複数人暖まるには、これが最適だったということですね。
私もついに流行病に罹りまして、静養中なのですが
ワクチンを打っているためか、のどが痛いくらいしか症状がない
お休みだけど給料は出るみたいなのでありがたいです。
無かったら青ざめですな(゜-゜)
眠たいので今日はこの辺で、ではまた✋
視点
事実は1つだが、真実は人の数だけある。
誰が言ったのか、こんな言葉があります。
言われる通り、物事に対して見方が変わるだけで真実はひとそれぞれになってしまうでしょう。
私にとって大事なものでも、他の人にとっては取るに足らないものなのかもしれないし
逆も然り
なぜこんなに真実に差ができるのか
それは、真実の数ほど人がいるからです。
人の出した答えは、近いものはあっても基本的にはオンリーワンのものです。
例えば2択だったとしても、その答えにたどり着くまでの思考のプロセスは違うわけなので
個人の中に思考の引き出しがいくつかあることで自分の真実だけでなく
他者の真実を想像していくことができるようになるのだと思います。
まぁ想像できることでデメリットもあるでしょうし
想像できないことでメリットもあります。
これも、ものの見方の話なのです。
センスとは知識+経験+「感覚」だと思っているので
何事に対しても知識と経験である程度のラインまではセンスを高めることは出来ると思います。
そこで個性が出るのが「感覚」であると思っているので、これがオンリーワンな部分ですよね。
他者理解も自己理解もセンスってあるよなと思います。
様々な視点で自己分析をしても他者からの評価を聞いた方が適切という話を聞いたりします。
これは自己分析に、自分の考え方の偏り(これが感覚ともいえるかもしれません)が入ってしまうからかもしれません。
どんなに自己分析をしても結局、評価するのは他人なので自分の裁量で出来ることには意味があるかもしれませんが
社会で生きていくときには、客観的な指標の方が自己分析には有効かもしれません。
どんな場面にも多様な視点をもつことがいいわけでなく、やはりTPOなのかなとも思います。
基本他の人と絡むときは必要な気がしますが、自分で覚悟を決める場面では自分の考えを中心に据えて行動していかなくてはならないことも多いですから。
前にも言いましたが自分の納得解が多くなるようにして生きていたいものです。
それではまた✋
プレゼント
プレゼントって何をあげるかよりその人のために時間を使ったことが大切なのではと思うだいこくです。
もちろん、喜んでもらいたいならリサーチは欠かしちゃいけませんが☺
というわけで、母の誕生日が近づいておりましてスマートウォッチを贈ろうと思っています。
そんなにヘビーなユーザーではないので、電話とLINEの通知さえ分かればいいかなという感じです。
あと防水は必須ですね。
いくつか候補があって
これは使っているスマホがだからという簡単な理由からなのですが、値段も手ごろでバンドタイプではないので画面も少し大きめです。デメリットは、物理ボタンがないので機械音痴の母が使うにはハードルが高いかもしれません。
②Xiaomi Redmi Watch 2 Lite
これは単純に私がシャオミ好きだからですね(笑)
コスパ良いと評判ですが、もちッと価格抑えられるとありがたいですね。
③Amazfit Bip 3
これは、私が使っているブランドということと価格
そして、かっこいいディスプレイってとこですね。
ちょっと私の好みに寄り過ぎたでしょうか(笑)
このあたりが候補ですかね。
個人的にはXiaomiのMi Watchが欲しかったりします。
スマホと合わせたいんですよね(笑)
これは違うモデルですけど、丸型のスマートウォッチがいいかなと
物欲が止まらない秋ですが、ほどほどにしておきたいと思います(笑)
ではまた✋
面倒事
いつも通り朝起きて、ルーティンを行っていくと
ふと「めんどうくさいなぁー」と」ぽろっと言ってしまうことがあります。
学生の時は、準備してあることだけすれば
一人暮らしの時は、自分の準備を全部すれば
結婚してからは、一人暮らしの時のルーティンに妻や夫のルーティンも混じってきたり
子どもができるとそれ+子ども達のお世話が入ってきますよね。
この話は、ルーティンが面倒くさいって話ではないのです。
よく言われることですけど、ルーティンを行うことで気持ちが整ってきたり
めんどうくさいことは大切なことだといわれたり
当たり前のことですけど、年齢が上がるにつれ、少しずつやることって増えていくわけで
人が生きていくのってアップデート推奨なのだと私が考えていることに気づかされます。
他の人もそうなのかは分かりませんが、私は自分の興味や関心のあることに対して知識が深くなったり技術が高まったりします。ここに他の人がどうとかってのはあまり関係なかったりします。
話はルーティンに戻りますが、年を取るにつれてキャパシティが増えていくとしてその中でいつも通りを行うことに「めんどうくさい」が発生する状態は、どこかしら心身にエラーが出ている状態なんじゃないのかなと思っています。
つまりルーティンを作っていくことで体調のバロメーターにすることができるのではと考えました。
なにを当たり前のことをと思われるかもしれませんが、私は病気になってから自分が無意識のうちに頑張ってしまう性格だということに気付きました。
そこにストップをかけてくれたのは、妻でしたが
それでもストップしなければいけないと自分で自覚する必要があったのです。
今まで通りにはいかない、でもやりたいことは変わらない。
あるとき、トップに言われました。
「もう容量が増えることはない」と
本当にそうなのでしょうか。
だとしたら、精神疾患になっていても各方面で活躍している人たちに人としての成長はなかったのでしょうか。
私は、このトップの言葉は呪いだと思っています。
この言葉を打ち破るためにいろんなことをしてきました。
たしかに新しいことをしてダメだったこともありました。
でもそれって健康な時でも大なり小なりダメだったのではないのかなって思います。
仮にもう増えることが無いとしたら、他の部分からリソースをもってきて金平糖みたく尖ってしまえばいいんじゃないかなと
できないことは、できる人に任せて
私にできて、他の人にできない部分を伸ばしていけばいいんですよね。
「めんどうくさいなぁー」は、それでもやろうとしているやる気の言葉なのだと思います。
言葉も表面だけでなく、背景を読み取って自己理解していきたいですね。
ではまた✋
attachment disorder①
愛着(アタッチメント)とは、「特定の人と結ぶ情緒的なこころの絆」と定義されています。
愛着を理解する際に大切なポイントが3つあります、
①「特定の人と結ぶ」関係であること。これは、親子関係に限らず、誰とでも結ぶことが出来る関係であることです。つまりは、保育園や学校などの職員でも関係を結ぶことが出来るということです。
②愛着に問題を抱える子どもの特徴として「情緒的」に未発達・未学習だということです。見かけの様子からその年齢にあった感情を期待します。しかし、未発達・未学習という点から子ども当人の感情混乱を引き起こし、不適応行動を起こすでしょう。
③愛着の問題は保護者の育て方の問題ではありません。そして相手と当人どちらかの問題だけで起こるのではなく、2人の間に起こる、関係の問題なのです。
近年では愛着の不形成から園や学校、施設で不適応行動する子どもたちが増えています。一見するとADHDの症状と同じ部分も見えるのですが、対応は全く違います。
今後、少しずつ内容については触れていこうと思います。参考文献はAmazonから貼っておきます。
物語は気まぐれに
副業と複業
先日、そんなお話を聞く機会がありました。
副業は、単純に収入を増やすために行うもの。
複業は、社会的意義やキャリア形成を目的として事業を行うもの。
こんな感じだったでしょうか。
起業することにリソース100%つぎ込むことは、ライフステージにとって難しいことが多いですが
複業は、仕事をしながら新しいことにチャレンジすることが出来ます。
結果は一緒になるのかもしれませんが、目的が違うので「副業」と「複業」では、本人の意欲が変わってくるのかなと
私もどちらかと言えば複業にしたいかなと考えています。
時間というリソースは限りがあるのでその中で、どんな働きが出来るのかというところですね。
やりたいことはまとまってきたのであとは、どうやって仕組みを作っていくかですね。
今のところ考えているのは、教員としてキャリアとお金を貯めていきながら、退職時に非常勤講師となり、フリースクールを開いてみること。
自分にどんな武器があるかと言われれば、子ども目線(不登校児)と大人目線の不登校に対する視点をもっていることや教職に実際関わっていることによる現場の様子知っていることや知識のアップデートを行っていること。
でしょうか。
うーんまだ弱い気がする。
どうすれば、よいかな。
ふくぎょう、むずかしいー
ロケーション
静かで落ち着いてWi-Fiあって飲み物もある。
そんな環境で勉強してますが、早くお家に帰りたくなるのは仕方ないですね(笑)
これほど、恵まれていても私は楽な方に行けることを許せるようになった(許せるようになっただけでOKは出していない)ので前と変わったなぁとブラックコーヒー飲みながらしみじみ思います。
学生時代は何かに追われるように必死で教員を目指すために動いていました。周りの人たちは学生生活を謳歌している中、1年生の前期からフリースクールと近隣の小学校のボランティアに行き、周りの人とは違うのだと
きっと変な優越感に浸りながら、動いていました。その優越感も自分は教員に向いていないと思っている劣等感の裏返しだったのでしょう。
そんな変な優越感に縋るくらい私には自信がなかったのです。
大学生のときはいろいろあったのですけれど、ここでは省略します(笑)
彼女の策略により村八分ならぬ大学八分にされそうになったり、新入生のオリエンテーションスタッフになってトラブルに巻き込まれたり、大学の裏で先輩から学園祭の実行委員長を任命されたり、たりたりたりと話題に事欠きません(笑)
一番濃かったんじゃないかなーと
私は、常に過去より現状が一番楽しい思考の人間なので
たのしかったなぁーはあっても戻りたいなぁは考えたことないのですよね。
現状に満足はしないのですけど、常に変化は続けていたいし
昨日よりマシなものになりたいなという感じです。
生きているといろんなことに気付かされます。
大切なのは何があったのではなく、その事実を自分の中でどう捉えるか。
その中で、自分がどんな人間なのかハッとすることがありますね。
この気づきを言語にしていくことが自己理解につながり、発信していくことでより深めることが出来るのではと思うのです。
自己理解する習慣がつくと、他者を理解しようとすることもできると思います。これはあくまで副産物ですが。
愛着障害について勉強中ですが
知れば知るほど、難しさが染みわたるものですね。
私の働く自治体では、学校で不適応を起こす子の中で愛着障害が疑われるケースが増えてきています。数値だけで困り感を判断してはいけませんが、発達検査の数値にも表れないので、具体策が見出せず大人も子どもも困ってしまっているというのが現状だと言えるでしょう。
学校に対する不適応は、広い意味で捉えると社会への不適応だと思います。
主語が大きいので難しいですが、不適応を起こしてしまっている子たちにどうにかアプローチできないだろうかと考えています。
まだ構想もできていないので、上手くまとまりませんが
教員としてキャリアを積み重ねながら、学校のようなものを作ってみたいなという気持ちはあります。
フリースクールのような場が私の県には少ないので、不適応を起こしている子たちのゴールが「教室へ行けるようにすること」がメインになってしまっていることが多いです。
もちろん、ゴールの1つとしてはありだと思うのですが、子ども達が学ぶ場を選び、その中で自律し保護者だけでなくいろんな人に依存しながら自立していくことがゴールなのではないのかなと
その選択肢を広げていきたいというのが私の人生の中での責務なのかなと思っています。
想いだけでは何も変わらないのでいろんな方に話を聞いたり、調べたりしながらやっていきます。
これも自分のペースでぼちぼちですね☺
ではまた✋